屋久島の里 第18弾
屋久島の最北端に位置し、古くから漁業の町として栄えた集落です。昔から、鯖漁が盛んで、以前はたくさんのサバ節工場がありました。また、屋久島の特産品で有名な「首折れサバ」の生産地です。
7 サバ節工場群(移転地)
一湊でのカツオ漁の始まりは、建仁2年(1202年)トビウオ漁は天明3年(1783年)サバ漁が明治18年(1885年)に始まったと言われております。
漁業で栄えた一湊集落では、町中の民家でカツオ節の製造をしていたところが多くあり、サバ漁が主体になってからはサバ節の製造をするようになりました。
昭和初期までは、そのサバ節製造場が町中に数多く点在し、夜通し火を焚いていて魚の脂に引火し火災になることが度々ありました。中でも昭和3年(1928年)4月11日に発生した火災は、一湊中心部のサバ節工場から出火し、お寺を含むガジュマル通りから海側の町のほとんどを全焼しました。その年の10月、町中にあったサバ節工場を一湊川河口に集団移転しました。
この場所を一湊では、今でも「移転地」と呼んで、サバ節工場群の通称になっています。
※一湊では、工場群の(有)馬場水産、県道沿いの丸勝水産の2社のみとなっています。
8 番屋峰防空監視所跡
「番屋峰」という名の由来は諸説ありますが、幕藩時代に薩摩藩が設置した津口番所の見張り所(番屋峰)があったためというのが通説になっています。
昭和16年(1941年)アメリカとの開戦を機に、屋久島上空を行き来する飛行機を確認・監視するため、この場所に防空監視所が建設されました。
現在建物は跡形もありませんが、土地が四角く削られていて、建物の大きさを推測できます。また、海側には遠くから飛来する飛行機を音で捕らえるための聴音壕や、里側には万が一の空爆に備えての防空壕が現存しており、当時の様子がしのばれます。
※木に結んであるピンクリボンを目印に進みますが、最初はわかりずらいので注意してください。徒歩20分程度です。(入口付近に駐車場はありません)
9 一湊漁港とダイビングスポット
古くから漁業で栄えた一湊の港には浜エビス神という豊漁と航海の安全を祈願する神様「えべっさま」が祀られています。いつ頃設置されたのか定かではありませんが、カツオ漁が盛んだった江戸時代にはあったといわれています。
毎年7月の海の日の前日に開催される「一湊浜祭り」の中で祝詞を奉納します。
屋久島の特産品として有名な首折れサバも、一湊の港で水揚げされます。その他にも季節に応じて色々な種類の魚が市場に並びます。
一湊の海には、たくさんのダイビングスポットがあり、屋久島の中でも多くの魚類が見られると評判で、中でも赤灯台から少し離れた沖の方に、戦闘機の残骸が沈んでいて、それが漁礁になり人気のスポットになっています。
23 水車谷の滝(すいしゃたんのたき)
この滝の呼び名は、戦前のこの滝から一湊川本流へ流れる小さな川「手ノ宇都(テノート)川」の左岸に、線香の粉を製造する水車小屋があったことから、この名前で呼ばれるようになったと思われる。
この水車小屋は、サンタブの木(屋久島自生のタブノキ)の葉と皮を乾燥させたものを5つ以上のあるタブノキで出来た杵と臼で、水車を利用して細かく摺りつぶして出来た粉を20kgぐらいずつの袋に入れて、福岡にある線香業者に卸していた。この製造所と水車小屋は、昭和21~2年頃まで存続していた。
1年中水量の多い水車谷の滝は、昭和24年に開校した一湊中学校の生徒たちの憩いの場として、長年愛されてきた場所でもある。
※2023時点で訪れた時には、看板が壊れていました。また、一湊生活館を尋ねたところ、区長さんから滝までは危ないので1人では行かない方がいいとのことで行きませんでした。
39 一湊十五夜 大綱引き
一湊区の十五夜は、江戸時代前期、元禄(1700年頃)、旧暦の8月15日に満月を「幸運を呼ぶ神様」と見立ててお供え物をしていたことから始まったとされ、綱引き行事はその数年後に始まったと言われています。(一湊区沿革史)
十五夜が近づくと綱引き用の大綱を作るための萱(かや)と蔓(かずら)を集落の全世帯が協力して集めます。ガジュマルに竹でやぐらを組み、蔓を芯にして萱を結い、大綱を作り上げていきます。
そして十五夜の夜、満月が昇ると綱引き唄と共に本通りで大綱引きが始まります。地の神様に十五夜の開始を知らせるため、お囃子の「よーいよーいやなーあれわーなーとこせ」のかけ声に合わせて、地面に綱を叩きつけます。最後は、みんなの力で大綱を真っ二つに引きちぎることで終了します。
由来には諸説ありますが、1年の無病息災を願い、病魔を断ち切る意味があると言われています。
看板の近くに「町えびす神」が祀られています。
55 千亀の井戸
是枝千亀(これえだ せんがめ)1821-1881)が、発見したと云われている湧き水。千亀女は、鹿児島市小松原出身の宗教家で明治元年、屋久島の一湊集落に来島しました。
晩年は、浄土真宗布教のために尽力し、布教活動中に永田集落で亡くなりました。
千亀女は、水源を見つけることの長けていたといわれています。「千亀の井戸」以外に、同じく一湊集落にある「大浦の冷泉」も千亀女が発見したと伝えられています。
73 布引の滝
一湊では「たーき」と呼ばれていましたが、1972年鹿児島県内で開催された「太陽国体」を記念して「布引の滝」と命名されました。
戦時中は空襲から逃れるために、この滝の上流に住民が避難してました。今も畑に石垣の跡が残っています。
かつて滝壺からは「経石」(経文を写した石)が、多数見つかっていました。遣唐使船の南島路の寄港地として栄えた名残とも思われます。船の乗組員である僧侶が、航海の安寧を祈祷したのでしょうか。
天平宝生5年(753年)唐僧・鑑真と遣唐使吉備真備が屋久島に来島した記録は「続日本記」に残っていますが、どの港であったかは明らかになっていません。
※「原集落」の「67 大臣(おとど)屋敷跡」にも寄港した旨の記載があります。屋久島の里行ってごらん(原集落)
矢筈嶽神社(やはずだけじんじゃ)
矢筈嶽神社は、漁業と縁結びの神様といわれ、天然の洞窟の奥に祀られています。また、通称「八幡様」とも言われています。
立地上から颱風(たいふう)や塩害で幾度か神社の再建がなされたようです。
毎年2月15日には一湊集落を中心に漁業者も一緒になって、集落発展と大漁・航海安全祈願の例大祭が行われています。
西郷隆盛上陸の地
二度目(1868年)の島流し(徳之島)の際、風待ちのため一湊の地に上陸し6月18日から8泊したといいます。
一湊灯台
一湊灯台は、屋久島最北端の矢筈崎に建つ灯台で設置点灯は、昭和36年2月15日です。矢筈嶽神社の先にある駐車場から徒歩で約10分です。途中、矢筈展望台との分かれ道をまっすぐ進みます。矢筈展望台への道は結構きついので、行かれる方は気を付けてください。
屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。 詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」
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