屋久島の里 第5弾 げじべえの里 原(はるお)集落です。また、原集落は島内で唯一下水道(農業集落排水)が整備されている集落です。
※「げじべえ」とは、屋久島の山に住む妖怪のことです。
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66 羽生巖知(がんち)の墓
羽生巖知(1861-1900)は、屋久島の人材育成に貢献した原集落の偉人です。
巖知がまだ幼かった頃、男たちは皆、猟師になるのが当たり前という時代でしたが、向学心の強かった巖知は学問の道に進みました。原小学校ができると教師として勤務する傍ら、村政にも尽力しました。そうするうちに、郷土の発展には人材の育成が必要であると痛感し、その後、資金を得るため医師となり、人材育成に取り組み始めました。
明治初期は島民のほとんどが文盲で、学問しようにも学費がない状況の中、巖知は、学生の学費を援助し、医学校や師範学校に通わせたり、屋久島出身の学生を住まわせるため、自宅を改装し、合宿所を作ったりと、郷土の発展のため貢献しました。
巖知は、39歳という若さで早世しましたが、私財を投げうって、将来の屋久島のために人材育成に尽くした志は、彼の家族に引き継がれ、その後も多数の精鋭たちを世に送り出したと言われています。
67 大臣(おとど)屋敷跡
奈良・平安時代、当時、先進国であった中国の文化、技術、仏教の経典等を収集するため、日本から遣唐使が派遣されていました。
753年、日本に帰る遣唐使船4隻に科挙に合格し、高名な詩人である李白や王維とも交友のあった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、唐招提寺を創建した日本の律宗の祖である鑑真(がんじん)、遣唐使の副使である吉備真備(きびのまきび)の3人の偉人が乗船していました。しかし、そのうちの第一船と第四船が遭難し日本に戻れず、第一船に乗船していた仲麻呂は現在のベトナムまで流され、祖国の土地を踏むことは叶いませんでした。
第二船に乗船していた鑑真と第三船に乗船していた吉備真備は、船の修理をするため、屋久島に寄港したといわれています。吉備真備は、船の修理をするしばらくの間、現在の民宿「海寿苑」あたりに宿泊し、原の磯で釣りをして過ごしたそうです。
後に、右大臣まで出世した吉備真備を称え、一行の宿泊した家は大臣(おとど)屋敷と呼ばれ、麦生集落のぽんたん館前には、上陸の記念碑が建っています。
上陸の記念碑 めちゃくちゃわかりずらいところにありました。
屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。 詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」
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