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屋久島の里 行ってごらん(春牧集落)

屋久島
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 屋久島の里 第10弾

 安房港から南に2キロほど行った場所で、屋久杉ランドや縄文杉登山入口に向かう道路の走る観光の通り道の集落です。また、国・県・町の施設(環境省屋久島遺産センター・屋久島環境⽂化研修センター・屋久杉自然館)があります。

13 安房森林軌道トロッコ発着所

 なお、現役で走り続ける森林軌道のトロッコ発着所です。
大正11年(1922)年から軌道の建設に着手し、翌年大正12(1923)年には、安房~小杉谷の16km(幅員2.0m、平均勾配4%、橋梁24基、トンネル16基)が完成しました。その後も年々延長され、総延長は26kmにも及び、国有林開発の前進基地であった小杉谷・石塚と安房を繋ぐ唯一の交通機関でした。
 昭和45(1970)年8月の閉山式を迎えるまでの長い間、常に時代の先端を行く伐採技術によって、銘木屋久杉を搬出してきた小杉谷には、小・中学校も開設され、昭和35(1960)年には、およそ150人が学び540人が暮らしていました。山間地の産業振興と生活を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群として、平成21(2009)年2月23日、国の近代化産業遺産として認定されました。
 注意 (構内は危険ですから許可なく立ち入らないでください)

14 滝之川の一枚岩

 河床に広がる平べったい一枚岩は、周辺の森の雰囲気との相性ともよく、清らかな水量が少ないときには、数十人が寝そべることができるくらいの広さがあります。この大きな一枚岩がなぜここにあるのでしょうか?
 これは屋久島の海岸線に広く分布する日向層群と呼ばれる堆積岩で、四千万年くらい前に海溝に堆積した泥や砂が、なが~い時間をかけて、海洋プレートによって陸地に押し付けられ、この地で島となりました。ここではかつての海溝の底の面影を残し、ほぼ水平の泥の面が一枚の岩となって現れています。海溝では泥の中の深海性のコムシ(ズーフィコス)やゴカイなどが暮らしていました。太古の海溝の底に寝そべって屋久島の古に想いを馳せてみてはいかがでしょうか?
 注意 一枚岩の表面は滑りますのでご注意ください。

15 盛久神社と夫婦アコウ

(盛久神社)
 平家の落人伝承にまつわる神社の一つで、平家の武将 平盛久が祀られています。壇ノ浦の戦いで破れた後、源頼朝に捕らえられ、鎌倉で打ち首になるところ、奇跡的に助かったという伝説があります。天皇を慕って都から南に下り硫黄島から屋久島に向かう途中でなくなりこの地で祀られるようになりました。
 この神社では、屋久島唯一、屋久杉を使った絵馬を奉納できます
 是非、願をかけていってください。

(夫婦アコウ)
 盛久神社の境内にある樹齢100年を超える大きなアコウの木。二本の大きな根がいくつにも広がる大きな幹を支えています。その姿はお互いに力を合わせて家族を支えあう夫婦のようであることから、いつの日からか夫婦アコウと呼ばれています。異性に想いを告白するとき、あるいは恋人や夫や妻に感謝の気持ちを伝えるときなど、この木の下で伝えてみませんか。あなたの思いが、しっかり伝わるかもしれません。
注意 頭上から枯れ枝が落下することがあるかもしれません。注意してください。

24 オデラ(於手良)の石塔

 塔は椨の木などが茂る木立の中大小数個の自然石塔と共に三基の五輪塔がある。
 この付近の字名(=地名)がオデラ(於手良)と呼ばれていることもあって、その昔、この地にはお寺あったとの伝承もあり、住民は、古から「オデラさん」と呼んで大事にしてきました。平成24年3月に発行された「鹿児島民具(屋久島特集号)」では、「この地にはかつて五安寺という律宗寺があった。現存する五輪塔の中には、一番古いものは律宗時代(14世紀中期~15世紀中期)のものや法華宗時代(15世紀後期~16世紀初期)のタイプのものがある。律宗時代の石塔は、屋久島では、このオデラ五輪塔一基があるのみである。」と記述している。律宗は中国に興り、日本へは、754年(天平勝宝6年)唐僧・鑑真が来朝して伝えた。唐僧・鑑真は5回の渡航失敗で視力を失ったが6回目の挑戦で唐から沖縄を経て奈良へ向かう途中、屋久島に漂着し10日余り滞在した後、坊ノ津(鹿児島)の秋目浦を経て日本上陸を果たした。

41 横峯縄文遺跡

 横峯縄文遺跡は、およそ3500年前に人が暮らしていた跡で、最大の特徴は大量の住居跡が発見されたことです。その数は、126基あり、未発掘部分を含めると180基ほどになると想定されています。西日本でこれだけ多数の住居跡が発見されるのは珍しいと言われています。
おそらく、春田浜のような豊かな海岸が近くにあり、安全な平坦地の台地の上に、背後に聳える前岳(965.9m)がもたらす湧き水に恵まれた環境だったので、人が暮らす所として優れていたと思われます。
 発掘調査でわかっている住居の床穴と柱穴に基づき、縄文時代に習い、雑木とツルで結び骨組みを作り萱を葺(ふ)いて竪穴住居の復元を行いました。
 照葉樹林に囲まれた竪穴住居の姿を見て、3500年前の縄文の里に想いを馳せてみませんか。

57 春田浜

 春田浜は、屋久島で最も規模の大きい離水サンゴ礁の海岸です。
 サンゴで出来た平坦な地形には、多くの潮溜まりがあり、貝や海藻、色とりどりの魚が群れ遊ぶ海幸の宝庫です。
 海岸には、コウライシバの草地が広がり、矮小化したテッポウユリやイソマツのような石灰岩を好む南方系の植物が花を咲かせ、豊かな彩りを見せてくれる憩いの場でもあります。
 また、潮風呂(岩風呂)や潮留めなど、人々が暮らしの中で利用してきた痕跡も見ることができ、古(いにしえ)から、多くの人たちに親しまれ、生活を支えてきたことがわかります。
 春田浜には語りつくせないほどの歴史や人々の営みがあるのです。この環境が後世にいつまでも大事に引き継がれていけますようにご協力をください。

75 あみね川のヘゴ群落

 ヘゴは、木生シダで木のように見えますが、年輪を作りながら大きくなることはできません。そのため、幹の根本から細かな根の束を垂らして、この束で幹を厚くし、背の高い自身の体を支えています。こうして出来た根の束を「ヘゴ台」といい、着生植物の栽培などに利用されています。
 恐竜が闊歩していた時代、今のような広葉樹はまだなく、針葉樹のような裸子植物とヘゴのような木生シダが森を作っていたといわれています。
 ここに杉とヘゴが混生している姿は、恐竜時代の森の雰囲気をそのまま、今に伝ているといってもいいでしょう。首の長い草食恐竜がヘゴの新芽をむしゃむしゃと食べている姿を想像すると悠久の歴史を感じることができると思います。

屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。           詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」

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