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屋久島の里 行ってごらん(小島集落)

屋久島
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 屋久島の南部に位置し、温暖で住みやすい地域である。農業が盛んな集落。屋久島では珍しく米の栽培も行っている。

68 小島集落概要

 小島集落は、屋久島の最南端部にあり、西部にある浦崎は屋久島の最南端です。集落は東西約2kmあります。海岸から南北2km程、平坦な地形が広がっていて農耕地に利用されています。小台地に密集している人家の東側は水田地帯、北側や西側の県道から山手側は果樹園地帯となっています。海岸は、高さ数十メートルの海崖で、入江はありますが、浜は少なく、良港はありません。小島集落の気候は冬期にも季節風の影響を受けることがなく、年間を通じて温暖な気候です。
 集落の名の由来については、海岸の離れ瀬で樹木の茂っている瀬を屋久島では昔「コシマ」と呼んでいましたが、集落の下方にある「山ノ瀬」が屋久島で一番大きいコシマであるとされていたことから、コシマのある集落として「小島」と名付けられたなど諸説あります。

69 小島神社&頌徳碑(しょうとくひ)

〇小島神社

 小島集落の県道沿いに鎮座し、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)菅原道真公です。特に菅原道真公は学問の神様としてあがめ奉られ、島内各所から多くの参拝者が訪れていました。五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願する例大祭は集落最大の行事で、毎年1月25日に行われ、棒踊りが奉納されます。境内には、アコウやガジュマルの木が茂っています。

〇頌徳碑

 小島集落では、明治20年代から農業の基本対策の検討が進められていましたが、明治37年(1904年)、日露戦争の進展に伴い食料事情が悪化したことから、食料自給の重要性を感じた岩川若松氏を中心に水田開発を計画し、水路開削に着手しました。困難を克服し、集落の東西数十町歩に及ぶ開田に成功し、水路開削により得られえた水は、水田用水はもとより、飲料、製糖、精米などに供しても余りある状態となり、その功績を称え、頌徳碑が建てられました。

シッドチ神父上陸の地

 シドッチ神父は、宝永5年(1708)ローマ法王の命により当時キリスト教禁制下の日本へキリスト教布教のため、屋久島小島恋泊の南 唐ノ浦に上陸した。その後、捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、正徳4年(1714年)キリシタン牢の中で亡くなった。
 取り調べに当たった新井白石は、シドッチの広い知識に触れ「西洋新聞」「采覧異言」を著した。これを読んだ八代将軍吉宗が西洋文学を読むことを許した。

屋久島里めぐり

 屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。           詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」

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