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屋久島の里 行ってごらん(宮之浦集落)

屋久島
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 屋久島の里 第20弾

 海の玄関口「宮之浦港」があり、人の交流、物流の拠点として発展してきた。総合病院、県立高校、スーパー、商店などが集中する島内最大の集落。救の宮と言われる「益救(やく)神社」と宮之浦川の清流は集落のシンボル。

10 益救(やく)神社

 益救神社は、「延喜式神名帳」(927)に記載されている南島唯一の式内社。十世紀初頭薩摩藩領内での式内社は、薩摩二社・大隈五社・日向一社の計八社のみであるから、益救神社がいかに有力神社として位置づけられていたかが分かる。別名「須久比ノ宮(救いの宮)」とも呼ばれ、宮之浦という地名はその名に由来する。
 主祭神は山幸彦(=天津日高彦火火出見尊=一品宝珠大権現)。奥宮は宮之浦岳(1936m)であることから、山岳信仰と深いかかわりを持つ。文久3年(1863)再建された社殿は、昭和20年(1945)米軍爆撃機により大破。現在の社殿は、昭和29年(1954)に復興されたもの。例大祭は4月10日に行われていたが、現在は4月29日に開催。集落の春祭りとして、各地区から歌や踊りが奉納される。屋久島在番奉行の有村壮一が、慶応4年(1868)に寄贈した手水鉢が、屋久島町の文化財に指定されている。

益救神社仁王像 町指定文化財

 文政期(1818-)から天保期(-1843)にかけて、島で流行した疫病の退散と島民の安全を祈って、天保2年(1831)に寄進されたものとされています。かつては、各寺院に仁王像がありましたが明治時代の廃仏毀釈により破壊され、現在は益救神社と牛床詰所に残すのみとなっています

手水鉢(町指定文化財)

11 久本寺(くほんじ)

 久本寺は、長享2年(1488)、日増(1442-1503)により開山された本山は、京都の本能寺と尼ケ崎の本興寺。法華宗再興の祖である日隆(1385-1464)の下で学んだ日増は、種子島家招きで来島。三島(種子島・屋久島・口永良部島)で布教活動を展開、それまで律宗一色であった屋久島は、種子島家の統治下で、全島法華宗(本門流)となる。その後久本寺は勢力を拡大、益救神社の管理運営も担うこととなる。江戸時代末期に作成された「三国名勝図会」には、「島中仏寺は皆日蓮宗(法華宗)のみにて他宗なし」と記載されている。
 享保16年(1731)失火により本堂が焼失(二年後に再建)、また明治時代初頭の廃仏毀釈により壊滅的打撃を被ったが、日増の真筆といわれる曼荼羅は奇跡的に残存している。現在の本堂は、平成23年(2011)、新たに高台へと移動して新築再建された。

檀那墓(ばんなばか) 町指定文化財

 薩摩藩は、屋久島統治や屋久杉管理のため、寛永19年(1642)、屋久島代官(後の屋久島奉行)を設置し、宮之浦に現地役所を置きました。藩士が交替で屋久島に派遣されていましたが、その中には島で亡くなった役人も多くいました。檀那墓は、檀那衆と呼ばれていた藩士たちの墓石群で、大正初期には50基ほどありましたが、現在は、約20基しか残っていません。

12 屋久島奉行所跡(現上屋久郵便局)

 慶長17年(1612)、屋久島を直轄領とした島津氏は、寛永19年(1642)には「屋久島代官」、元禄8年(1695)にはその代官を廃止して「屋久奉行」を置き、屋久島の支配体制を確立した。しかし宝永5年(1708)キリスト教布教のために密かに屋久島へ潜入したシドッチ神父事件をきっかけに、それまでの「屋久島抑」を廃止して「屋久島在番奉行」を派遣。「屋久奉行」を「屋久島奉行」を呼称替えして、屋久島の支配体制をより強固なものとした。享保13年(1728)には「屋久島手形所規模帳」を定め、屋久杉を筆頭とする屋久島の全ての物産の管理体制を整えた。その後宝暦7年(1757)には木材移出禁止令、寛永元年(1789)には屋久島の薬草類もすべて宮之浦蔵へ提出することが定められた。以後明治2年(1869)に廃止されるまで、薩摩藩は屋久島奉行所を中心に屋久島の支配・統治を続けた。
※シドッチ神父上陸の地 小島集落屋久島の里 行ってごらん(小島集落)

40 宮之浦川橋(通称:古橋)

 宮之浦川橋は、熊本営林局が設計・施行し、昭和5年12月(1930年)竣工しました。それまで宮之浦川には橋が無く、人々は「繰り舟」と呼ばれる長さ6mほどの箱型の板付け船で渡るしかなく、宮之浦川への架け橋は集落民全員の悲願でもありました。
 長さ150m。幅4.8m。鉄筋コンクリート造りの橋が架けられた背景には、大正10年(1921年)国から提示された「屋久島国有林経営の大綱」(通称「屋久島憲法」)があります。それは、明治政府の官民有地区分政策によって「村持ち山」までも国有地化され、16年間の裁判闘争の挙句敗北した島民たちが手にした、せめてもの代償でありました。
 島民感情を慰撫(いぶ)しつつ国有林施業を円滑に遂行するために着工した「島一周沿岸林道」は、約43年の歳月をかけ完成することになります。橋は、昭和20年(1945年)米軍の空襲により一部破損しましたが、現在、夏の夜には提灯が飾られ、集落民の夕涼みの場となっています。

56 伊能の碑

 実測による、正確な日本地図を作製した伊能忠敬(1745-1818)は江戸時代後期の商人・測量家です。「地球の大きさを知りたい」と50歳にして天文学を学び、55歳のときに測量を開始しました。以後17年間、71歳まで日本全国を歩いて測量し、国土の正確な姿を明らかにするという大事業を成し遂げました。
 地図作製は、幕府による国家的事業であり、全国各藩も多大な負担を求められ屋久島測量の際には薩摩藩も船八艘を仕立て、全面的にサポートしました。地元屋久島も測量隊が歩く道の整備や宿の準備等、全村あげて協力しました。楠川古文書には、その時の楠川村による負担の詳細が記録されていて、一大事件だったことが分かります。
 忠敬測量の最南端であった屋久島測量は、文化9年(1812年)3月27日~4月25日にかけて実施しました。現在、京都大学附属図書館には、「大熊国馭謨郡屋久島沿海図」として所蔵されています。

74 岩川與助像

 

 岩川與助(よすけ)は、1886(明治19)年、宮之浦生まれ、苦学して財界・政界で活躍し、1960(昭和35)年、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受賞しました。
 1928(昭和3)年、熊毛初の衆議院議員となり、同年~1930(昭和5)年、1949(昭和24)年~1955(昭和30)年の4期にわたり、種子屋久航路の改善や宮之浦川・安房川への架橋等に尽力しました。
 1929(昭和4)年、県に水利権を出願し、屋久島の電源開発を画策。構想は実現しませんでしたが、以後、屋久島は「電源の島」として注目されることになります。鹿児島商船や大日本炭鉱社長、屋久島電工取締役を歴任し、1969(昭和44)年にその生涯を閉じました。上屋久町名誉町民第一号です。
 この胸像は、「東洋のロダン」と称される彫刻家、朝倉文夫(1883-1964)の作。同氏の作品には、代表作「墓守」の他、照国神社の「島津斉彬像」や、早稲田大学の「大隈重信像」などがあります。

牛床詰所 町指定文化財

 屋久島は、古くから「山岳信仰の島」でした。牛床詰所は、その行事である「岳参り」の折りに、山に詣でた男たちを家族たちが出迎えた場所です。女人禁制のため岳参りに参加できなかった婦人や子供たちは、日頃ここで遥か山奥の御岳を拝みました。
 詰所内には、「一品宝珠大権現」や「仁王様」など疫病退散や大漁祈願、安全祈願のための様々な石塔が約60基ほど奉納されています。

屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。           詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」

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