屋久島の里 第6弾 屋久島でも最も温暖な地域で、特産品のぽんかん、たんかんの主産地で「総親和」のもと、協調とぬくもりのある「麦生(むぎお)集落」です。
ここらの土地は、山地崩壊や河川の氾濫により、地表が削られ、むき出しになっている場所という意味で「剥生(むぎお)」から「麦生」となりました。
87 麦生集落の沿革
奈良時代(733年)の屋久島南部における中心地は、この麦生集落か隣の原集落にあったのではないかといわれています。
主な産業は、江戸時代のカツオ漁のあと、トビウオ漁、黒砂糖製造、ガジュツ栽培を経て、昭和30年代(1955年頃)から柑橘類のぽんかん、たんかん栽培が始まり、一大生産地となっています。ほとんどの世帯が果樹農家であった昭和55年(1980年)には、全国農林水産祭(農林水産省と(公財)日本農林漁業振興会の共催)の「むらづくり」部門で日本一になり、天皇杯を受賞する栄誉を得ました。
近年、農業に従事する人は4割に減り、移住者の増加に合わせて宿泊飲食業に従事する人が3割になっています。(2015年国勢調査)
約330年前(1686年)より伝承されている盆踊りの「麦生なぎた踊り」は、町指定無形民族文化財です。毎年8月13日と15日に集落内5か所で奉納されてます。
88 えびす様
ここには、えびす様が6体祀られています。自然石3体、木造1体、石像1体のえびす様と陶器製の大黒様1体です。昭和59年(1984年)に、それぞれ別の場所にあったものを当地に集合させました。
一番大きな木造のえびす様は、明治17年(1884年)に、集落に住んでいた元薩摩藩士の市橋清右ヱ門藤原芳烈さんが制作したのもで、代々市橋家の人により化粧直しがされてきました。鮮やかな色彩、凛々しい顔立ちから「美男えびす」とも呼ばれ、レプリカが国立歴史民族博物館と屋久島町歴史民俗資料館に展示されています。
トビウオ漁が盛んだったのは江戸時代終わりころから昭和30年代初めころまでです。かつて毎年1月10日の「十日えびす」には浜辺で豊漁祈願の浦祭りをしていましたが、現在は集落役員と船主等が当地を参拝するだけとなっています。
屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。 詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」
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