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屋久島の里 行ってごらん(永田集落)

屋久島
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 屋久島の里 第16弾

 風光明媚という言葉がぴったりの場所。集落から、標高1,886mの「永田岳」の全景が見え、目の前には日本一の海亀の産卵地の「いなか浜」があります。「前浜」、「いなか浜」、「四ツ瀬浜」の3浜を含む「永田浜」はラムサール条約にも登録されています。また、100年以上活躍している屋久島灯台があり、西部林道の入口の集落です。


1 嶽野川発電所

  嶽野川上流の水を取水し、下流まで設置した鉄管内を落とす水の力で、水車や発電機を動かし発電する水路式発電所である。
 当発電所は、大正15年(1926年)に屋久島水力電気株式会社によって設置され、以来今日まで、地域の生活を支える地産地消型の水力発電所(発電出力最大160kW)である。この頃は、近海で鯖漁が盛んであり、一湊港の製氷工場への電力供給が主ではあったが、同時に、永田、吉田、一湊の3地区の家庭にも配電された。島内がまだランプ生活のころに、3地区では現代化の幕開けとなった。
 発電所の運転・管理では、特に大雨や台風時に、取水口に木の葉や枝、土砂が押し寄せたりして、水量の減少による停電もたびたび起こり、大変な面もあった。今では、ゴミ上げの自動化や無人化がされている。

左:取水施設 右:発電施設

2 田之峰神社

 主催神 豊受大御神 併祀 森山大明神 祭日 陰暦の9月1日
 [豊受大御神] 伊勢外宮の祭神で、農作物や畜産の神、または、天照大神のお食事を差し上げる役目としてお迎えして、農民の間で古くから親しまれ信仰されてきた。此の神がお産の神様として尊拝されているには子孫繁昌にもと云う人々の切なる願望からきたもの。
 [森山大明神] 部落を最初に拓かれた方々を森の神として祀る風習からくるもの。昔、伝染病(天然痘)のため、(平、中野)を棄てて上向江、半田方面に移り住んだ人々は御神体を、方限山の森に祀ることとした。これは、人が死ぬと遠くに行かないで、住んでいた村や家の見える高い木(アコウやガジュマル)をよりしろとして、四村を朝夕見守ってくれるいう、民族信仰に基づくもので神仏混合に基づくものです。
 明治維新後政府よりそれらの風俗の廃止令がだされるが、村の役員が神社創立の際、神名を隠して、同居させてもらった。
※諸々の神の禊ぎ行事で立ち寄られる尾根筋であるとも云われている。

3 小山神社

 主催神 玉依姫尊 綿津見尊 神体 2つの陰石岩塊 
 創立 江戸時代 祭日 陰暦8月1日 田之峰神社と姉妹
 岩塊の高さと幅は、左が8m×5m 右が7m×6m、その上に樹木が茂り、その先に、カイヤモイという森があり、そこでのろしをあげていた。
 小山は子山がもとの名称である。
 祭りの時には、つのまきを供える。又縁結びの神様として若い男女がつのまきをお供えしてお参りをしていた。永田の人たちは、太古の昔から、此の岩塊を御神体として此の聖なる石体に思いを込めて、拝んできたと考えられる。
屋久島で陰石が見られるのは、モッチョム岳と小山神社の岩石のみです。

22 水車・発電機

 嶽野川発電所(水路式発電所)の旧使用機器
 水車  横軸フランシス型  168kW 大正14年製造(1925)
 発電機 横軸回転界磁開放型 150kW 大正14年製造(1925)
 永田区の西に嶽野川発電所があり、現在も稼働する水力発電所である。
 大正15年(1925)に屋久島電気株式会社によって、島内に初めて設置され、永田、吉田、一湊地区の家庭にもいち早く電燈が燈された昭和30年代になると電力需要が高まり、単独では発電量が不足し、以来、宮之浦に設置された屋久島電工株式会社から配電を受けて供給を行っている。
 嶽野川発電所では、自然の川のエネルギーで水車を回し、動力を発電機に伝えて最大出力150kWの電力を発電している。展示の水車・発電機は、新機器の交換がされた平成3年までの約65年間、修理や手入れを重ねて大切に使われた初期当時の機器である。今では、大変貴重なものであり、九州電力株式会社から本区へ寄贈を受けたものである。

37 七学童と永田橋

 明治40年(1907年)2月13日、こちら(向江地区)から対岸の叶地区の永田尋常小学校に通う児童が、昼食のために帰宅しようと永田川の繰渡船に乗ったところ、午後0時10分頃沈没し、尋常科児童6名、高等科1名の計7名の児童が溺死しました。
 当時、永田川に橋がなかったため、対岸地区からの通学は繰渡船を利用していましたが、この児童7名の溺死を機に、永田の事業として永田橋架橋を行うことになりました。明治41年(1908年)5月16日永田橋(木橋)が完成し、永田住民に特別な喜びをもって迎えられました。

53 嶽参り

 屋久島では、集落に近い山を前岳、島の中央部にそびえる永田嶽などの山々を称して、奥岳と呼んでいます。
 嶽参りとは、前岳や奥岳に祀られる一品宝珠大権現に、各集落の代表者が春と秋にお参りする行事で、永田集落が発祥といわれています。
 永田集落の嶽参りは、永田浜で海水に洗われた砂をもって海抜0mから永田嶽の山頂を目指します。山頂の石窟には、1722年に顕寿寺の住職と檀徒代表が奉納した祠があります。参加者は、その祠の前で村民の安寧と五穀豊穣を祈ります。春の嶽参りに、神様の依代として各戸に届けられるシャクナゲの蕾は、現在も村民に喜ばれ各家の床の間に飾られます。

 なお、永田嶽神社には町指定文化財の「永田嶽神社境内摩崖題目」があますので是非見学してみてください。

永田嶽神社境内摩崖題目

71 牧新蔵翁

 明治12年の地租改正の際に、集落の惣代であった牧新蔵翁は、官民地区の境界を定め、現在の世界自然遺産地域である西部林道の大部分の山林地域を、集落及び民有林としました。
 しかし、明治18年、その地域の山林を売却したとき、国はこれを国有林の横領とみなし、翁を刑事被告として7か月間拘禁しました。翁は、境界の誤りはないと主張をまげず、遂に検察当局はその主張を認め無罪放免の判決をしました。
 「永田嶽から海辺まで見渡す限り村民のものだ」と確固たる信念と燃えるような情熱で主張した牧新蔵翁は、永田集落民の誇りであり、自然の恵みと共生したいとする翁の想いは、島で生きる私たちにとって今も変わることない光です。

屋久島の一部の集落で語り部さんのガイドにより集落の案内を行っています。           詳しくは、こちら⇨屋久島の「里めぐり」

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